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神はクオリアに宿る

雄大で美しい自然を見たとき、別分野の理論が双対の関係にあることを知ったとき、命の危機を乗り越えたとき、そんなときに人智を越えた何かが世界を動かしているような錯覚を得ることがある。 あくまで錯覚だ。 だが、感じているに過ぎないから存在しないといえるだろうか。 喜びや怒りと同様に心を震わせる何か。 その感覚そのものを神と名付けることは出来ると思っている。

いいことがあれば喜ばずにはいられないし、敵には怒りを感じずにいることは難しいだろう。 神を感じるというのもそれと同質なものだ。 感じないでいろといわれてもそんなことは出来ない。 自身の内にある感覚、神と呼べなくもないそれを生き方の指針とすることも、そういう信念であるというだけの話だ。

しかし、その神は偉大な何者かではなく、自身の一部であることに自覚的であるべきだと思う。 自分の内面と対話してより善くあろうとするのは決っして悪いことではないが、所詮は矮小なる自分自身でしかないのだ。 正しいことも間違っていることもある。 正しくても間違っていても自分自身が決断したことだ。 結果を受け止めて活かさなければならない。

神を第三者であるかのように考えるというのは自分自身の決断を他人のせいにすることであり、無責任なように思われる。 私を世間一般でいうところの分類で考えれば無神論者ということになるだろうが、自分の内面の一部を神と呼べなくもないと考えているところからすれば自分を信仰しているともいえるだろう。 自らを神と称するなど傲慢だろうか。 私の神は私だけのものだ。 自分の決断の結果を受け止めるのが自分自身ならば傲慢でいられようはずもない。

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